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2015年11月16日月曜日

今の私個人にできること


人の悪口を言わない。

噂に踊らされない。

自分の中の偏見を失くしていく。

自分の弱さや甘さから目を背けない。

人を責める前に、知ろうとする。

意地の悪い人がいたら
その人の背景を想像して、なるべく許す。
そして恨まない。

理解してもらうことよりも
まず理解しようと努力する。

他人と自分を比較しない。

他人からの評価ではなく
自分自身で
自信を感じられることを目指して
生きていく。

「知る、学ぶ、考える、伝えていく」を
生きている限り続けていく。


まだまだ、あると思います。

全ての事はどこかで繋がっていると信じて
自分にできることを。

考えることを
止めてはいけないと
心に誓いたいと思います。

2015年10月6日火曜日

自分を見つめ直すということ



今から数年前。

当時の私は
良くも悪くも
人間の様々な欲望が渦巻き合ってる
混沌とした現場で仕事をする事が多く
立ち回りが決して得意ではない私は
身体も心も本当にボロボロでした。

ある時
胃に普通でない痛みを感じて病院に行くと
潰瘍が四ヶ所見つかり、出血していましたが
他に代わりもいなくて
どうしても休めない仕事ということもあり
残りの10日間ほどの公演を
なんとかやり切ったのを覚えています。

その少し後
大きな震災があって
人として
自分は何に貢献できているのか
自分はどう生きたいのか。
そんな疑問が湧き起こり
自分の目指すべき「志」というものを
を渇望するようになっていきました。

そして、偶然出会ったのが
一般財団法人メンタルケア協会のサイトです。

これまで私が何度かこのブログで
「心の勉強」の講座について書いてきたのは
このメンタルケア協会のことです。

当時
誰かにケアしてもらう側ではなく
ケアする側の目線で勉強をしたことは
今考えると
私にとっては本当に大正解でした。

講座では
自律神経と脳とは密接な繋がりがあり
それは身体や心の異常にも
深く深く関係していることなど
人間のもろさを
物理的に理解することも勉強します。

ストレスというのは、
本当に様々な要因から発生しますが

「自分の人間的甘え」が
大きなストレスを引き起こすこともあること。

どう考えても
災難としか思えないような人間関係なら
リセットする勇気も必要な時があること。

自分の人生に
「利他」の想いが入ることで
いかに大きな充実感を得られるかということ
等々・・・。

スポンジが水を吸うように
たくさんのことを学ばせてもらった結果

講座終了時には、
ちょっとした事では動じない
柔軟で強い心が
自分の中に育ち始めているのを
実感できました。

もし
「自分を変えたい」とか
「心が強くなりたい」という想いを
持っている方がいらっしゃったら。

まずは
「自分の甘さや弱さを認める」ことが
最初の一歩だと思います。

自分の考えの甘さを認め、自覚し
他を学ぶこと、知っていくことから逃げない。

これまでも何度か書いていますが
「自分が変われば周りも変わる」の真意は
ここにあるのだと。

そう言う私も、まだまだ考えが甘く
逃げ道を探したり
自分の弱さを直視できない時もあります。

でも、以前と変われたところは
「ちょっと待て。
お前は本当にそれでいいのか?」と
自分で自分の心に問いかけることが
できるようになったことです。

これはちょっと自分でも嬉しい変化で。
その変化に気づいた時、
勢いで始めてしまったのが
「ピアノでアドリブ脳を鍛えよう」
の連載なんですね。

アドリブができるようになるために
覚える事や地味な繰り返し練習は
たくさんあります。

自由にアドリブができなかった頃の私は、
「忙しくて勉強時間が取れない」
「疲れて、そんな気力を持てない」
そのくせ
地味で面倒な練習は素っ飛ばして
「カッコイイ演奏をしたい欲」は
メチャメチャ持ってる。

言い訳と利己の固まりですね(; ̄ェ ̄)

「できない」とは
やろうとしない人の言い訳である。

これはよく聞く言葉です。
私も初めて聞いた時は
ガツンと心に響きました。

ただ、やり方がわからない人にとっては
なかなか厳しい言葉かもしれないとも思います。

アドリブが出来るようになるためのやり方を
学んで知って、実践してきた私にできること。

ピアノを自由に弾く楽しさを
伝えていくことはもちろんですが。

もう一つ。

「本気でアドリブをやりたい」という人に
やり方を一つ一つ示しながら
その背中を少し押してあげて
途中でくじけそうな時は
その背中を支えることだと思っています。

ブログという文章だけでは
できることは限られてしまいますが

どこかの誰かにとって
このブログが
自分の中の「やる気スイッチの存在を知る」

そんなキッカケになってくれたら嬉しいです。


2015年3月12日木曜日

3.11「東日本大震災」によせて。2015


2011年以降、毎年この時期にブログを書くことに迷いを感じる事もありますが、やはり、自分の中での「気づき」を記して残しておくことは後々自分を内観するためにも必要なことだと思いました。

今、自分にできること。

この時代に生き、この時代で起きた事を経験して学んだ者にしかできないことを、未来に向けて、個人個人一人一人が、
その時に生まれた想いや信念を原動力に、自分の頭で考え、続けていくこと。

誰かに褒めてもらったり讃えてもらう為ではなく、ただただ、次の時代に繋げていく為に、「想い」を育てて伝えていくこと。

それが、ここまで「想い」を繋げてくれた先人の方々に報いることでもあり、やがては自分の気持ちの充実に繋がっていくのだと、震災から四年経って思います。

2015年2月1日日曜日

命。


人は、生きていれば誰にでも必ず「悩んだり、葛藤したり、もがき苦しむ時」というのがあります。
一人、一人、子どもでも大人でも、男でも女でも、どんな人でも。

そういう時、逃げたり目を背けたりせずに一つ一つちゃんと向き合い、受け入れ、乗り越え、
自己を否定することから少しずつでもちゃんと解放されている人は、
命というものに優劣はなく、その人生一つ一つが(自分の人生も含め)とてつもなく尊いものだということに気付いていけるのかもしれません。

様々な苦しみや劣等感に向き合い、受け入れることは容易なことではないことですが。

ただ、そこで他者の責任にしたり、他者と自分を比較することによる「逃げ」に走るのではなく、
自分が自分を肯定的に受け止められるようになるために「自分で自分自身に立ち向かってできることを考えること」は
成熟した考え方を身につけていくのに必ずプラスになっていくことだと、私は思っています。

時代は変わり、物事の価値観や常識が刻々と変わっていく世の中でも、一人一人、伝えていくべき事はたくさんあります。
「人の真の強さ」が「人の弱さ」に屈してしまわないように。

2014年12月6日土曜日

意志を明確にしていく為に。



ポッと降って湧いた感が否めない今度の選挙ですが。
皆さん、行かれますか?

私は30歳を過ぎた辺りからずっと選挙は必ず行ってます。
なぜか。
それはひとえに次世代への責任感からです。

今の大人の考え方や行動は、子ども達へそのまま伝わります。
自分の欲や個人の関心事ばかりに気を取られて、「未来への責任感」や「心の勉強」をなおざりにしてると、子ども達もそれに倣います。

今の子ども達が大人になって、またその次の世代へ、命が繋がれていくと共に伝えていかなければいけない事はたくさんあります。
それは親だけの役割ではなく、全ての大人の役目だと思うんですね。

たった1票で何も変わらないとおっしゃる方もいます。
そりゃそうです。今の自分の生活や日本社会がそう簡単に変わるはずありません。

大事なのは、大人一人一人が「次世代のために何ができるのか」「この国がどうなっていくことが望ましいのか」を
真剣に考えるということなんだと思います。

選挙はその良い機会だと思うんですね。
候補者の目つき、顔つき、政策の内容、政策に対する気持ちの強さ。
その主張が本物かハリボテかを見抜けるかどうかは、私達大人一人一人の「目」にかかっています。

いいかげんに選んでしまうと、かの「号泣の人」みたいな人が当選してしまうという恐ろしい事態を招きかねません。

大人の責任として、自分の意志を明確にしていく為にも、選挙を活用してみるのも良いんじゃないかと思います。
自分が生きる価値をそういう形で培っていくのも、なんかどこか清々しい感じがしませんか?


[冒頭の写真は庭の椿。たしか椿ってツツジみたいに蜜を吸えるんですよね♪]

2014年10月18日土曜日

本の力



人は誰でも、辛い事や苦しい事を一つや二つ、もしかしたらそれ以上、抱えながら生きていると思います。
どんなに幸せそうに見える人でも必ず、大なり小なり何かを抱えて生きていると、私は思っています。

自分の周りで、一人で抱え込んで苦しそうな目をしてる人を見ると、少しでも心が楽になったらいいなと真剣に思います。

もちろん私も人間ですから、抱え込んで苦しくなる時もあります。
そういう時、私は「本」に救われてきたことが多いです。
もちろん、私の中に「前を向く力」が必ずあるはずだと静かに信じてくれている「家族」や「友」の存在も大きいですが、それでも「踏み出しの一歩」の心の力が欲しい時、本がそっと背中を支えてくれる事が多いのです。

普段本を読む方は、その魅力に気付いてらっしゃる方も多いかもしれませんが、改めてここで書かせて頂きます。

私は、様々な本の中の言葉に何度も助けられ、その度に心が強くなり、少しずつ自分を肯定的に受け止められるようになり、そのうち、「人を敬う心」が自分の中で育っているのを感じるようになりました。

もし、このブログを読んでくださってる方の中に、心が疲れて何かに寄りかかって少し休みたいと思ってる人がいらっしゃったら、ぜひ何か本を手に取ってみてください。

何を手に取ればいいかわからない方には、ラベル(カテゴリ)の中の"book"に数少ないですが「徒然草」「福翁自伝」等々、私が救われてきた本を紹介しています。

他にも、ここ数年で私が心に力を貰えた本の作者には
池上彰さん、瀬戸内寂聴さん、養老孟司さん等々、挙げるとキリがないほどいらっしゃいます。
そうやって作者の方の人生の片鱗を見せて頂き、自分の価値観や考え方を広げていくきっかけやヒントをたくさん貰いました。

そういえば、歴史上にも心に沁みる言葉を残してくれている方がたくさんいらっしゃいますね。
例えば

マザー・テレサ
「愛されることより愛することを。理解されることよりは理解することを。」
「人間のほほえみ、人間のふれあいを忘れた人がいます。これはとても大きな貧困です。」

ナイチンゲール
「愛というのは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること。」
「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である。」

キング牧師
「許す力に欠けているものは、愛する力にも欠けている。」
「人は、個人的な狭い関心事を越え、人類全体に関わる広い関心事に向かうようになって初めて本当の人生を歩み始めるのである。」

これらはたくさんある言葉の中のほんの一例ですが、
人生の大先輩達の残してくれている言葉は「心の快復剤」となるような言葉がたくさんあります。


辛く苦しい思いをしている方の心にとって、少しでも前を向く力の手助けになりますように。



[冒頭の写真は近所にある総合公園の紅葉。赤くなるのはもう少し先ですね。]

2014年9月16日火曜日

今の自分を好きですか?


何年か前に、ある女性芸人さんがテレビで「自分をほんまに好きになれる方法、知ってんねん!」
と仰ってたことがあるんです。

ここでいう「自分」とは
SNSとかで「いいね!」をたくさん押してもらえるとか、周りの人から「凄いね!」とか「羨ましい!」と言ってもらってる〈他人目線〉の自分のことではなくて、〈自分目線〉で見た自分のことです。

彼女曰く
〈自分目線〉で自分を好きになってくると、他人と自分を比べることも減っていき、自分を肯定的に受け止められるせいか「嫉妬」という感情も持ちにくくなり、結果、人を受け入れる余裕ができて、人との関係も心地良くなり、人生に前向きになっていくと。
良いことだらけですね。

その芸人さんは何かの本で読んで始められたそうですが。
「自分を本当に好きになれる方法」、それは「家の中のどこか一ヶ所だけ、いつでもピカピカにキレイにする習慣をつける」ことだそうです。

これは、たくさんある方法の中の一つかもしれませんが、私はこれを実践して本当に自分のことが好きになってきました。

私はまず洗面台周りから始めました。
昔は仕事が忙しくて疲れてる時とか「今度の休みにキレイにすればいいや」っと、ついつい先延ばしにしてたのですが
その芸人さんの言葉をきっかけに、洗面台を使う度に「鏡に跳ねた水滴や蛇口周り」を拭き取って、本当にいつでもピカピカにしました。

同居してる人が歯磨き粉の泡を飛ばそうが洗面台をビチョビチョにしようが関係ありません。
「ここは私の聖域」と言わんばかりに、とにかく洗面台だけは自分が使う度にキレイにしたのです。

そのうち、ちょっと視野が広がって、電球の上や棚上の見えない所もついでに拭き取るように。
そんなことを習慣にして数年が経つと、いつの間にか洗面所全体が、そしてトイレ、キッチン、リビング等、ちょっとしたとこに気付く度にササッと掃除できるようになりました。

「休みの日にまとめて掃除→まとめてやって疲れて→掃除が嫌い」だったのが、今では「目についたらササッと→苦にならなくなる→掃除が好き」になったんですね。
家をキレイにキープできることが、こんなにも自分の自信に繋がるとは思ってもいませんでした。

「掃除」って結局、どこまで「目が行き届くか」に尽きると思うんですね。
普段見えない、見えにくい所が汚れている事をどこまで想像できるか、それは、そのまま「心の鍛練」にも繋がります。

掃除の目が行き届く範囲が広がっていくのと平行するように、「人の心」に対する想像力も広がっていく気がするんです。

そうなってくるともう「自分を好き」とかの次元じゃなくて、「この生き方、考え方で良いんだ」という自信に繋がってきます。

「お掃除の達人級」の方からすれば、「何を今さら」的なことかもしれません。
ハウスキーピングの観点からも、自分はまだまだなのも自覚してます。
ただ
私の場合は「掃除」でしたが、何でもいいんだと思います。小さなことでも「何かが良くなるために何かを続ける」ことが大事なんだと。

仕事が立て込んでしまって、体力気力ともに限界な時はどうしても手抜きしてしまいます。
それでも洗面台だけはピカピカを死守します。自分を嫌いになりたくないんで(≡^∇^≡)

最後に僭越ながら。
疲れきっていても、お掃除心を後押ししてくれるアイテムを少しご紹介します。
まずは、以前このブログでも紹介した「マイクロファイバーお掃除手袋」。
これは本当に便利です。
一度この手袋をつけると洗濯機に入れるまでに「あ、ここも。あ、あそこも拭ける」とついでにやってしまうところが良いんです♪


もう一つは冒頭の写真。
一つ100円の麻カゴと5枚で100円の雑巾(税抜き)。
キッチンと洗面所に置いてます。ちょっと汚れたらすぐ拭き取り、雑巾が汚れたら洗濯機へポイッ!
雑巾を洗って絞る作業をだいぶん省略できます♪

2014年8月28日木曜日

引き継ぎ、受け渡す。


今、【日本史の謎は「地形」で解ける】という本を読んでいます。
(今回は[book]カテゴリーではないので本の写真はなしです。)

信長、秀吉、家康がなぜ今の大阪城が建っている「土地(本願寺跡)」を巡って血みどろの戦いを繰り広げたのか。
なぜ頼朝は京ではなく鎌倉に幕府を開いたのか。

歴史を動かしてきた名武将が欲した土地には、彼らが欲しがる理由がありました。
攻められにくい地形、農地を開拓できる土地、災害の起こりにくい地形など・・・。
山の多い日本では、条件の良い土地を手に入れること=生き残るということだったんですね。
この本を読んでいると、彼らがいかに日本の地形を把握し、考えながら戦っていたことがよくわかります。

しかし、良い条件の土地でなくても、先人達は多くの災害や悲劇を経験しながらも、考え、工夫し、これまで生命を繋いでくれました。
この長い日本の歴史の中で、先人達が体験し、知恵を絞ってくれたからこそ今の日本がある事は、歴史を知れば知るほど、その重みが伝わってきます。

私たち大人ができることは、「悲劇を繰り返してはいけない」と一生懸命に知恵と知識を残そうとしてくれた先人の想いを引き継ぎ、その想いを次世代に受け渡す事だと、この本を読みながら再確認しています。

何を、どれだけ、どう伝えていくかは、今の大人の肩にかかっていると思います。
そのさじ加減は、やはりその時代を生きる人間が考えるべきことで。
ここでもまた、「考える事をやめてはいけない」と強く思うのでした。

2014年8月11日月曜日

今年もヒマワリ♪


毎年植えてるミニヒマワリ。
今日やっと花が咲きました♪
今年は咲くのが遅かったなぁ。。。なんでだろう?

毎年この時期に書いてる気がしますが、
私が2011年以降毎年ミニヒマワリの種を植えている理由は
3.11のことを忘れないためと、「考えること」を止めないためです。

いろんな噂やニュースを聞いたとき、しっかりとした自分の人としての軸を土台にして、自分はどう思うのかを考える。
慌てて踊らされて、浅はかな考えに走らないように。

そして何より、「人の人生」の重みを考えられるように。


2014年7月30日水曜日

食。

(本日の収穫♪)

なるべく、食事は自炊を心がけています。
今は夏なので自前畑の穫れたて野菜も毎日食べます。

こんなことぐらいで食の安全を確保できるわけではないんですが
それでも、そんな生活を続けていると、たまにジャンクフードみたいなのを食べると少し胸焼けするようになりました。
ジャンクフードって美味しそうでそそられるんですけどね ( ̄∇ ̄ )ゞ

この前、久しぶりに近所のスーパーのお弁当を買って、中の卵焼きを少し食べてみると、「ん?」ちょっと違和感が。
もう少し食べてみると。
脳の中で「それ以上食べるな」って警告音が鳴ってる気がする。
結局3分の2ほど食べて止めておきました。

その後、お風呂に入ると手と足が赤く張ってきてですね。
・・・蕁麻疹です。

あれは、卵焼きのようで食感や匂いがちょっと違う。
私は卵アレルギーではないので、あの卵焼きには何か混ぜ物があるんじゃないかと。
検証のため、しばらく経ってからまた同じお弁当を買ってきて卵焼き以外全部食べた。・・・なんともなかった。
再度検証のため、またしばらく経って、今度は卵焼きを少しかじった。・・・蕁麻疹が出た。
決定、か。
(ちなみに一緒に食べてたもう一人は何もなかったので、人にもよると思います。)
これからは、何となく違和感を感じるものは食べないようにしよっと。やっぱり自分で作る方がいいや。


「食事」は長年の積み重ねで、心や体が良い方にも悪い方にも転がる大切な行為です。
材料を選び、料理し、ありがたく食し、片付ける。この各行程には人としても成長出来る要素がたくさん詰まっていると私は思っています。

「食育」に関する本もたくさん出ていますが、人格が育っていく過程でもとても重要な「食」。
その大切さをわかっているだけでも、10年、20年、30年先、生き方が大きく変わってくると思います。


2014年7月8日火曜日

考える

(黄トマトが色づいてきました♪)

同意してくれる人の数の多さや人から賞賛される事とは関係なく、しっかりとした自分自身の考え方を持つ事は本当に大事なことだと、最近よく思います。

自分の脳でしっかりと考えるという事は実は凄く難しいけれど、「学ぼう」という気持ちがあれば、少しずつでも脳は鍛えられると私自身は思っているし、実感もしています。

こういうことを教えてくれたのは普段愛読させて頂いている「Chikirinさん」という方の「Chikirinの日記」というブログでした。(数年前に本当に偶然の巡り合わせで見つけたブロガーさんです。)

読んでいて時々「それは強気だなぁ。」と感じる時もありますが、「脳の基本的な使い方」という部分では深く共感することが多いです。

今後、世の中がどう動いていくのか。
先の読みにくい時代だからこそ、「知識」よりも「思考」が重要になってきているということが、ブログを読んでいて犇犇(ひしひし)と伝わってきます。(もちろん知識も脳にストックしていくことは必要だと思います。)

Chikirinさんの著書のタイトルには『自分のアタマで考えよう』『未来の働き方を考えよう』など、「考えよう」という言葉がよく出てきます。

インターネットのお陰で情報や知識はすぐに得られるような状況で、「自分で論理的に考える」ということは本当に難しい事かもしれませんが、
視野を広げて、興味を持つ範囲を広げ、シナプスを鍛えて、思考力を養っていくことは、今後生きていく上で本当に必要になっていくと、Chikirinさんのブログは思わせてくれるんですね。

生まれてきた時からインターネットがある世代の人には特に、この「思考力」を武器に時代を生き抜いていく力を持って欲しいと、僭越ながら思う次第でございます。

私はこういう事の勉強を始めたのが遅かったので、未熟でまだまだ物事の認識も甘いと思うのですが、
「学ぼうとする気持ち」は何歳になっても持ち続けたいし、少しでも脳を鍛えて自分のアタマで考える生き方をしていきたいです。


2014年4月20日日曜日

「苦労を分け持つ心」


最近は少しバタバタしているので畑や庭の世話がなおざりになってしまってます。
でも、昨年咲いた花の種が落ちて、また花をつけてるのを今朝見つけて、ちょっと嬉しくなりました♪

いつもの仕事に加えて、今はミュージカルの仕事もあって、起きる時間が普段より少し早いので
毎朝聞いてるラジオも、いつもより早い時間帯の番組です。

その番組内で毎回、ほんの数秒ですが「瀬戸内寂聴さん」の言葉が流れます。
先日、朝の準備をしながら耳に入り込んできた言葉が

「人の役に立てなくても、
 苦労を分け持つという意識を持ってください。」

ほんとに、スーッと心に響く素敵な言葉だと思いました。
「苦労を分け持つ」。
こういう心を地球上の全ての人が少しでも持てたら、小さな争いも大きな争いも、なくなっていくかもしれないなぁと。

人を手助けできたり支えたりできた時、その後に湧き出てくるジンワリした心の温かみは他の何にも代えられない幸福感です。
「苦労を分け持つ」ということは、そういう幸福感を直に感じられるかどうかはわかりませんが、巡り巡っていつか世の、人の役に立っていくことだと思います。

心に余裕のない時は難しいと思いますが、余裕のある時だけでもこの言葉を思い出せると、きっと人生の幅も少しずつ広がっていくんじゃないかと思うんですね。

早起きして、こんなに素敵な言葉に出会えるなら、早起きも悪くないなと思いました♪

2014年3月12日水曜日

3.11「東日本大震災」によせて。2014


私は関西出身で、東京に出てきたのは大学卒業後数年経ってからなんですが。
「人としての基礎」もできてないままフリーの世界で生き始めたものだから、右も左も分からない状態で、本当にいろんな所でたくさんの人に迷惑をかけ、たくさん頭を打ち、人の温かさや冷酷さを肌で感じながら、なんとか今までやってこられました。

そんな中、震災があって、いろんな感情に脳を支配されそうになりながらも、まずは自分の考え方を根本的に見直さなければならないと思いました。
そして、もっと物事を深く広く捉えられるように「人としての確固たる基盤」を持ちたい、と「心の勉強」を始めました。

「脳」「哲学」「死生論」「家族論」「青少年の心理」「終末期医療現場にたずさわる方々の心理」・・・等々。
最初はそういう本を読み始め、それだけでは飽き足らず、ついには大学で講義を受けたことは、このブログでも少し書きました。

そうしていくうちに、自分の人生にとって「何が必要で、何を大事にしていきたいのか」がハッキリしたように思います。
そして。
自分の心の基盤に自信がついたせいか、人からの評価があまり気にならなくなり、自分も人を評価するということがなくなってきました。

すると不思議なことに、人との関係も心地の良い関係が増えてきたように思います。
心を通い合わせられる人との出会いが増えてきたというか。
あと、密かに感じていることは、もしかしたら自分が奏でる音や演奏にも微妙な変化が起きているかもしれません。
この前、仕事で5時間にもおよぶJAZZとFUNKの大セッションがあったのですが。
けっして音環境が良かったわけではなく、トイレ休憩を挟みながらもほぼ5時間ピアノを弾きっぱなしだったけど、他のメンバーの音との交わり感が凄く気持ち良くてですね。
久しぶりに、本当に久しぶりに、もの凄く楽しくて幸せな時間でした。

これは、「自分が変われば周りも変わる」ということの実体験ですね♪

もう一つ。
私の中での大きな変化は、心のどこかでいつも追い求めていた「志」が見えてきたことです。
それは
受け継いだり学んだ事を伝え繋げ、人として培った大切なモノを少しでも次世代へ受け渡していく為に、自分の人生を使いたいと思うようになったこと。

これは大人として当然といえば当然なのですが、より現実的な「志」として心に強く持つようになりました。

その為にできる精神的な事は、
「自分の心の扉」をできるだけ大きくしていくために「知っていくこと」。
「知らない、知ろうとしないこと」は無駄な負の感情(不安や怒り、妬み等)に繋がると思うので。
そしてなるべく「学ぶべきところは学ばせて頂く」という気持ちで人と関わっていくこと。

そして物理的な事は、いろんな子供達との関わりを持てる機会を模索していくこと。

昨年、このブログに書いた【3.11「東日本大震災」によせて】からまた1年、ほんの少し前へ進めた気がします。

2014年2月13日木曜日

脳を作る。


最近、老人ホームの慰問ステージの仕事をさせて頂く機会がありまして。
フルートとピアノのデュオで童謡、昭和歌謡、ジャズ等、なるべく一緒に歌ってもらったり手拍子してもらえるように工夫してやってみました。

演奏後、数人のご老人とお話させて頂いたのですが、喜んで頂けた上に、曲に因んだ想い出話も聞かせていただいたりして、お一人お一人の人生を少し垣間見せてもらったようで、嬉しいような愛しいような、なんとも不思議な気持ちになりました。

ただ、少し気になった事があります。
たくさんの施設を訪れたわけではないので一概には言えないかもしれませんが。

老人ホームのご老人の中には大きく分けると、介護が必要でも「なるべく前向きに生きようとされる方」と「何かもう諦めたように与えられる事だけをこなしている方」がいらっしゃるように思いました。

そのモチベーションの持ち方の違いは何なのだろうと後になって思い返してみると。
生き方が前向きに見えるご老人は、あくまでも話した印象ですが、「考えること」や「工夫すること」にあまり抵抗を感じていらっしゃらないのでは、と。

「もう年だから無理。」という言葉を時々聞きますが、これは、もしかしたらご本人がそう思い込んでらっしゃるだけで、そう思い込むことで「何かできるかもしれない可能性」を自ら放棄しているようにも感じます。

では、その「考える力」や「工夫する力」はどこから生まれるのかを私なりに考えてみると。
それは、普段の生活や仕事で、そういう「脳」を少しずつ作っていく事ではないかと、思い至りました。

例えば。
習慣化してしまっている家事のやり方でも、少しの工夫で劇的にやりやすくなったり時間短縮できたり。
(私は百円ショップのお掃除コーナーや収納コーナーで、よくその刺激をもらってます。)
こうしたほうが見た目に気分が上がる、ここにコレを置いておけば何かのついでにチャチャッとできそう、とか。

ジャズピアノの訓練も、少し似た所があります。
白鍵と黒鍵を自由に操れるように「脳を少しずつ作っていく作業」というのがジャズピアノには不可欠で、その作業も基本以上へ進もうと思うと、「こうしてみるとイケるか?」とか「こう訓練すると応用範囲がひろがるかも」というように自分で工夫していかなければ発展していけません。
そういう私もまだまだ発展途中ですが。

高齢者人口が今後もますます増えていくとされる日本で、「誰かに守ってもらえる」「誰かに与えてもらえる」というような考えは、遅くとも私の世代が高齢者になる頃には通用しなくなってると思います。
自分の人生を充実した人生にしていけるかどうかは自分次第で、高齢者になってもそれは変わらないと思うんですね。

日々のちょっとした工夫で、なるべく楽しみながら「脳を作り育てて」しなやかな脳にすることによって、ひょっとしたら老後の人生も大きく変わってくるかもしれないなぁと、慰問ステージをやって思いました。

2013年11月9日土曜日

育てる♪


会った時、目を見て話して、お互いの心を気遣い、そして、人として、お互いにより良く生きていきたいと思い合える。
そんな友人がいます。

出会いは大学生の時だから、もうかれこれ20年ほどの付き合いになります。
出会った最初から、今みたいに仲が良かったわけではありません。
若い女子にありがちな、物事を上下に見て、妙なライバル心を持ったり、無駄な張り合いもたくさんしました。

ただ、その子は「真のイジワル」ではなかったです。
たまにイジワルを言う時も、どこか「本当はこんな事言いたくないのに。」って顔しながら言ってた。
そういうところは「憎めないヤツ♪」って、思っていました。

大学を卒業して、お互いに「夢に向かってまっしぐら」な時期が数年あって、社会に出て仕事も持って。
偶然に私とその子の仕事の現場が同じ県であって、「じゃ一緒にご飯でもしよっか」って事が何回か重なって、いつの間にか年に数回、約束をして会うようになりました。

彼女との付き合いの中でわかってきたこと。
それは、「関わり合い」というものは育てていけるものだということです。

最初は、ほんの少しの心の気遣いから。
そのうち自然に「ありがとう」という言葉が会話の中に増えていったように思います。

どんなに無様で情けない私を見せても、その無様な情けない私の存在を丸ごと受け入れてくれる。
今、彼女との関係の中には、そういう安心感があります。
そして私も、彼女がどんな状態になろうと、その存在を受け入れたいと思っています。

そういう関係ができる過程には、もちろん「偶然」とか「縁」のようなものもあったと思いますが、やはりお互いに「この関わりを育てたいという想い」がどこかにあったのかもしれません。

もう一つ。私の中で変化がありました。
彼女との付き合いが長くなるにつれ、「彼女以外の人」との関わり方も変わってきたように思います。

酷い事をしたり言う人がいても、その時の言動だけでその人がどういう人かを決めつけてしまうのではなく。
その人が育ってきた背景や生きている環境を想像しながら、「この人もどこか苦しいのかも、寂しくて、不安なのかもしれない。」となるべく否定しない。

そういう「心」を持ちたいと思う原動力も、彼女との関係の中で培われているような気がします。

「人との関わりを育てていく」。
もしかしたら私にとって幸せの第一歩なのかもしれないです♪

2013年10月19日土曜日

救急救命処置教室『愛する人を守れますか?』


災害、事故、事件。
本当に、いつ、どこで、誰が巻き込まれるか分からない昨今。

インフラ的な整備に関しては国や自治体に任せるしかないですが、個人個人で出来ることは「知っておける情報や方法は知ろうとしていく」ことしかないのではないでしょうか。

私の住んでいる地域の自治体が「救急救命処置教室」を無料で開催してくれるということで、行ってきました。


4分。
この「4分」が非常に重要で、呼吸停止から心肺蘇生を行い始めるまでの時間の目安です。

呼吸停止から2分以内に心肺蘇生が開始された場合の救命率は90%。
4分以内に開始された場合は50%

4分を過ぎると急激に救命率は落ちていきます。

倒れて意識のない人がいたら。
@まず、その倒れてる人と周囲の安全確認。←重要!
@次に周りに人がいたら、目を見て「119してください。」「AEDを探してきてください。」と頼む。
 周りに人がいなければ、自分で119。AEDは後回し。
@倒れている人に声かけ「聞こえますか?わかりますか?」(むやみに動かさず、肩などトントンッと軽く刺激を与えながら。)
@10秒間ぐらい呼吸があるかないかを確かめる。

@呼吸が停止していれば、即、心肺蘇生開始。

*心肺蘇生(心臓マッサージ。なるべく平らな固い場所で。)
場所は左右の乳首を結んだ線の真ん中辺り。
そこに自分の手の付け根部分を乗せて、もう片方の手を重ねる。
肘を伸ばして、真上から垂直に体重をかけて押していきます。(少なくとも5センチ沈むように。)
回数は1分間に100回以上。
(ちなみに実際やった感じではテンポ100~105ぐらいでした。)

以上を救急車が来るまで続ける。

思っているより力が必要です。手も痛くなります。
でも、止めてはいけません。
倒れている人が家族や友人や恋人だったら尚更です。
「何もできなかった...」と後悔するぐらいなら、「救えるかもしれない命」を救おうとする手段を知っておくことが大事だと思います。

ちなみに、AEDの使い方も教えて頂きました。


「電流が流れるシート」を貼る場所が、濡れている時は拭く。
体毛で上手く付かない場合は剃る。(T字カミソリもAEDセットに入ってるらしいです。)

1度体験しておくと、もしそういう現場に遭遇したら迷いなくできると思うので、行かれたことのない方は、お近くの自治体や何かのイベントで救命教室があったら是非参加されることをオススメします。




2013年7月18日木曜日

いろんな種の話


ミニヒマワリが満開です。
今年はキレイに咲いてくれました♪

私が2011年以降毎年ミニヒマワリの種を植えている理由は、 3.11のこと(生命のこと)を忘れないためと、「考えること」を止めないためです。

2011年夏頃には、たくさんの情報が錯綜していましたが、ヒマワリが「放射性セシウム」を吸収する等というインターネット上の信ぴょう性の薄い情報を、安易に鵜呑みにしないという「教訓」の気持ちもあります。

あ、あとカワイイからってのも、モチロンありますよ♪

う~~ん。今は講義を受けているせいか、脳内の思考がどうしても講義の内容とリンクしてしまいまして。
今回のブログは少し重めなので、イヤな方はスルーしてくださいm(_ _)m。

続きは写真の下にあります。
ちなみに、この写真は「ねじ花」といって雑草だけど「蘭」の一種だそうです。
どこからか種が飛んできてウチの庭で咲いてくれたんですねぇ♪
よく歩く所に咲いてる子達は踏んでしまいそうだったので、摘んできて台所に飾りました。

 

4月から講義を受けて勉強し始めて3ヶ月ちょいですが。
今まで自分が本当にたくさんの大切な事から目を背けて生きてきた事を思い知らされています。
今日はその中の一つについて書こうと思います。

講義の中で、終末期医療現場のケアする側とケアされる側の「心」について学ぶ機会がありました。

ミニヒマワリのように、命には必ず限りがあります。
人間も同じです。

「いつか自分は死ぬ」ことから目をそらさずに自覚し、ならば「有限な人生で、何をなせるか?」と生きる意味に覚醒する。
これはドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー氏(1889~1976)の云うところの『 実存 』の考えだそうです。

その『 実存 』と対比されているのが『 現存在 』です。
これは、事物だけの世界の内に存在し、他人を、道具として扱って、欲望に駆られ、「いつか自分が死ぬ」ことから目をそらし、ごまかして生きる。
それが『 現存在 』だそうです。

〈 *注意*
これは私の解釈ですので、足りない所や微妙な解釈の違いはどうか温かい心の眼で補ってやってくださいm(_ _)m 〉

私は、『 実存 』を目指して生きたいです。
そして、いつその時が来ようと、できるなら「その時点までに出来る事は、やりきった。」という充実した気持ちで人生を終えたいと考えています。

科学技術や文明の進化は、歴史上や今現在を見てもわかるように、技術は受け継がれ、日々進歩を遂げています。
しかし。
人が、その人生で修得できた「心の成熟」は、その人一代限りのもので、その子供は先代が得た「心の知識や糧」を胎内で獲得して生まれ出ることはできません。
生まれたその時から、他者の人生と関わりを持ちながら、また一から、心を成長させていかなければなりません。


ヒマワリも、その他の野菜達も、成熟し、やがて種を落とします。
「心の成熟の種」は、一つの人生でそんなにたくさんポトポト落とせるものではないかもしれませんが、
自分の中の成長と共に、一粒一粒、落としたり誰かと交換したり。
そんな人生を歩んでいけたらなぁと、微かな希望のようなものを感じる今日この頃です。



2013年6月27日木曜日

「笑う力」


私が今学んでいることを大まかに言わせていただくと。
「哲学」 「心理学」 「教育学」 「法学」 「精神医学」 「看護学」 「宗教学」 といった様々な方面からみえてくる
『人の心』について、たくさんの資料本と格闘しながらも、出来るだけ多くの事を吸収しようと頑張っている次第なんですが。

その中の参考資料に「笑い学」というものがあってですね。
身体の免疫細胞を活性化させたり、血糖値を抑制したり、また、心の持ち方や意思のあり様に変化をもたらしたり。
そんな「笑いの効果」は近年日本でも話題になっていて、科学的に証明されているものもあります。

たしかに。
思い返してみると、私の人生も「笑い」によって本当に救われている部分が多いです。
競争や妬みが渦巻く現実の人間社会の中でも、要所要所で、笑わせてもらったり笑い合ったりした記憶がハッキリと残っていて。
腹がよじれるほど、涙が出るほど大笑いした後なんかは、一瞬ボーッとなりますが、その後は鬱積していたものが「笑い」と一緒に吐き出されたのか、スカッとなるんですよね。

「笑う前の自分」と「笑った後の自分」とでは明らかに何かが変わっていて、今思うと、そこから「また立ち上がるエネルギー」が生まれていた事も少なからずあったなと。

地球上に人間という生命体ができて以降、長い進化を経て現在、人間の「笑う」という能力が消滅せずに残っているということは、「笑うこと」が人間が生きていくうえで必要なことだからだそうです。

心から笑い合える人との出会いというのは、今の日本社会では貴重なものかもしれませんが、「笑う力」は誰の中にも存在します。
こういう時代だからこそ、日常の中にある「色んな笑い」の可能性をもっと意識的に掘り起こして求めていってもいいんじゃないかと、ちょっと思いました。
あ、そういえば前回ブログに書いた福澤諭吉さんの自伝本にも「フッ」とか「ニンマリ」的な笑いが随所にありましたよ♪

ちなみに、「笑い」を科学的に数値化する「笑い測定器」なるものを、今は亡き木村洋二教授(関西大学)が開発されたそうで、その数値の単位は「aH(アッハ)」だそうです。

なんでも人は笑うと横隔膜が振動するそうで、その振動で発生する電位を測定するらしいのですが。
「○○アッハ笑ったからストレスホルモンがこれだけ減った」とか数値化できたら、「笑い療法」が医学的に使えるようになるということで。
その研究は木村教授のお弟子さん達が受け継いでいるそうです♪

2013年4月18日木曜日

女子大生(#^.^#)




えっと。。。いきなり妙なタイトルですみません。

実はこの4月から、とある大学校舎で講義を受け始めまして。

このブログには本当に好き放題書かせていただいてますが、
「伝えていきたい」と思う事を書く時は、自分自身に対して「思いの確認」をしている時もけっこうあります。
書く事によって、頭ではわかってても心に落ちてなかった事もストンと落ちる事もあったり。

そんな風に想いや考えが纏まっていく中で、湧いてきた欲求があります。
それは、「もっと人間力みたいなもの?を上げたい。普通は眼を背けたり逃げてしまいがちな事にも、逃げずに向き合いたい。その強さを身につけたい。」そんな欲求でした。


そんな事を考えていたある日。ひょんなことから見つけた講座がありました。
養老孟司さんが顧問を務める協会の講座です。
養老孟司さんの著書は何冊か読ませて頂いていますが、その中の言葉というのは私の「人生の指針」となっているものも少なくありません。

それでもやっぱり、けっっっこう長い期間思い悩んで、やっと通う事を決心しました。
授業料もバカにならないですしね。


週に1回ほどですが、1日に1時間45分の講義を3つ。
こんなに長い時間イスに座って講義を受けるのは学生の時以来なので、ちょっと集中力を必要としますが、なんせ自ら欲して受けているので、あっという間に時間が過ぎます。
内容は、「法と生命倫理」や「死生論」、「青少年の心理」、「看護と介護」、「人間論」、「現代家族論」等・・・と多岐に渡ります。

なぜこういう事に興味を持ったか。

私には子どもがいません。
それでも、核家族化が普通になったこの社会で「子育て」というものがどんなに大変か、私の乏しい想像力でも
少しは想像出来ます。
それに加えて原発事故や、様々な分野における技術の進歩に伴って生じるかもしれない危険からも、子ども達を出来る限り守っていかなければなりません。
そして、「心の教育」。
まさに親の仕事というのは千思万考、多事多端だと思うのです。

そこで思いました。
そのお手伝いを、少しでも出来ないかと。
子がいないからこその、自身と向き合って、得られた心の糧や考える力を、少しでも受け取ってもらいたい。
それには自分自身が、もう少し、乗り越えて、視野を広げ、伝わる心を身につけないといけないと考えました。

おこがましい事を言っているのは承知しているつもりです。
子育ての経験もない者に何が解るのか。そりゃそうです。子育ての真の大変さなんて、経験のない者に解るはずないです。
でも、焦点を「子ども」に当てるとどうでしょうか。
成長過程の中で、私みたいな考えの大人を必要としている「人」も中には居るかもしれません。
いや、いると思います。私が、そうだったので。
「縁」、「運」。どんな出会い方があるかはわかりませんが、私が学ぼうとしている事がいつか少しでも何かの役に立って欲しいと思っています。

という事で、これから半年ほど都内の大学(冒頭の写真で場所がわかる人もいるかな?)に通います。
どこまで自分のものにできるか、しばらく気の抜けない日々が続きますが、
一度きりの人生の中で、自分に出来る事を、一歩一歩進んでいきたいと思います。


2013年3月23日土曜日

Boys, be ambitious.



私が高校生の時に取っていた歴史の授業は少し変わっていて。

50歳前後の女性の先生だったのですが、歴史上の人物の「教科書に載ってないような背景やエピソード」をよく話してくれる先生でした。

その先生が言うには。
「歴史の面白いところはね。
なぜこの人は、この時こういう行動を取ったのか。もしこの時に違う行動をしていたら歴史も、今の日本も、変わってたかもしれない。
なんて事を想像して、では自分ならどうしていたか。
そうやって色々考える事ができるから面白いのよね。」

などと言いながら、当時公開されていた歴史を扱った映画の女優さん批評なんかもしちゃう御茶目な人でした。
「あの女優さんは決して美人ではないけど眼が良いわネ。オーラが美しい!」と力説されていたのを覚えてます。

もともと私も歴史は嫌いなほうではなかったけど、この先生と出会ってからは歴史上の人の心理や背景に興味を持つようになったように思います。

っで、その先生が言っていた言葉。
「昔の人が残した言葉にはね。本当に深くて大きな意味があるのよ。」と。
そして
「例えば、授業でやったクラーク博士の”Boys, be ambitious.”(少年よ、大志を抱け)。
これもね。よく考えると本当に深くて大きな意味があるのよ。
でも私が簡単に言ってしまったら意味がないから、あなた達がこれから大人になっていく過程で、もしこの言葉を思い出したら。
その時に考えてみてね。」
。。。のような事を仰ってたような気がします。

”Boys, be ambitious.”。。。当時は言葉をそのまま捉えて、「大きな野心、目標を持て」って感じに捉えてたけど。
社会人として今までたくさんの色んな人と一緒に仕事をしてきて。
少し捉え方が変化したかも。

これは、『志』 すなわち 「何かをやり遂げる揺るぎない意思」 を持てという意味ではないか。
「有名になりたい」とか「お金持ちになりたい」というような野心も、その先に『志』があるのなら悪くない欲なんだと思います。
人間のそういう飽くなき欲求が資本主義社会の原動力になっているのも事実ですし。

ただ、『志』 もなく、
「有名になって皆から自分を認めてもらいたい」や
「大金持ちになって贅沢三昧したい」のように
それが最終目的になってしまって、単純に己の私欲のみに向かって進むと、
それを手にした途端に今度はそれを失う恐怖に捕らわれ、怯え、自己保身にひた走る人生になってしまう可能性があります。

『揺るぎない志』があれば、たとえ、それまで手にしたモノを手放したとしても、また前に進むことができる。
それは、いうなれば。何度でも立ち上がる精神的強さを持つ事にも繋がるんだと思います。

もし、「自分が何でここにいるのか、本当にやりたい事も解らなくなって、流されているうちに迷い込んだ」。そんな気持ちになったとき。
一旦立ち止まって、じっくり考えてみるのもいいかもしれません。
何か一つ。揺るぎない『志』を。

「Boys, be ambitious.」。。。今の私はこんな風に捉えていますが、10年後の私はまた違った捉え方をするのかな。楽しみであります♪