2013年12月29日日曜日

徒然草


つれづれなるままに、ひぐらしすずりにむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

小学生の頃に丸暗記した記憶がありますが、当時はその意味を理解しようという気が起こらず、そのまま時が過ぎてしまいました。

今思うと、それは本当にもったいない事でした。
先日、本屋さんで何気なく手にとって中をパラパラッと見てみると、なんとも興味深そうではありませんか。

読み終わった今、この本は自分の生き方を考えるにあたって「良き友」のような存在になっています。

700余年前に、こういう事を考え、人間というものの奥底をじっと見つめ続けて、そしてそれを書き残してくれた大先輩がいらっしゃったなんて。
全部で二百四十三段から成るこの「徒然草」を書いた吉田兼好さんは、人生を達観した所がありながらも、自分の中に存在する「俗っぽい部分」にも眼を背けることなく、しっかりと自分と向き合っておられるところに好感が持てました。

中でも「生と死」に関する段や「人というものの趣」に関する段は本当に心に沁みます。

「自分がなすべきことを自覚している人間にとって、人生は短い。しかし、自覚しない人間にとって人生は長い。」(第百八十八段、解説参照)

どう考え、どう生きればいいのか。
この「徒然草」には、その「人生を生きるコツとヒント」がたくさん詰まっています。

この角川ソフィア文庫の「徒然草」は、格段ごとに、まず現代語訳で書いてあって、その後に原文があって、その後に解説が書いてあるので非常にわかりやすかったです。

新年を迎えるにあたって、心新たにスッキリしたい方にオススメです。読んだことのない方は是非♪


2013年11月9日土曜日

育てる♪


会った時、目を見て話して、お互いの心を気遣い、そして、人として、お互いにより良く生きていきたいと思い合える。
そんな友人がいます。

出会いは大学生の時だから、もうかれこれ20年ほどの付き合いになります。
出会った最初から、今みたいに仲が良かったわけではありません。
若い女子にありがちな、物事を上下に見て、妙なライバル心を持ったり、無駄な張り合いもたくさんしました。

ただ、その子は「真のイジワル」ではなかったです。
たまにイジワルを言う時も、どこか「本当はこんな事言いたくないのに。」って顔しながら言ってた。
そういうところは「憎めないヤツ♪」って、思っていました。

大学を卒業して、お互いに「夢に向かってまっしぐら」な時期が数年あって、社会に出て仕事も持って。
偶然に私とその子の仕事の現場が同じ県であって、「じゃ一緒にご飯でもしよっか」って事が何回か重なって、いつの間にか年に数回、約束をして会うようになりました。

彼女との付き合いの中でわかってきたこと。
それは、「関わり合い」というものは育てていけるものだということです。

最初は、ほんの少しの心の気遣いから。
そのうち自然に「ありがとう」という言葉が会話の中に増えていったように思います。

どんなに無様で情けない私を見せても、その無様な情けない私の存在を丸ごと受け入れてくれる。
今、彼女との関係の中には、そういう安心感があります。
そして私も、彼女がどんな状態になろうと、その存在を受け入れたいと思っています。

そういう関係ができる過程には、もちろん「偶然」とか「縁」のようなものもあったと思いますが、やはりお互いに「この関わりを育てたいという想い」がどこかにあったのかもしれません。

もう一つ。私の中で変化がありました。
彼女との付き合いが長くなるにつれ、「彼女以外の人」との関わり方も変わってきたように思います。

酷い事をしたり言う人がいても、その時の言動だけでその人がどういう人かを決めつけてしまうのではなく。
その人が育ってきた背景や生きている環境を想像しながら、「この人もどこか苦しいのかも、寂しくて、不安なのかもしれない。」となるべく否定しない。

そういう「心」を持ちたいと思う原動力も、彼女との関係の中で培われているような気がします。

「人との関わりを育てていく」。
もしかしたら私にとって幸せの第一歩なのかもしれないです♪

2013年10月19日土曜日

救急救命処置教室『愛する人を守れますか?』


災害、事故、事件。
本当に、いつ、どこで、誰が巻き込まれるか分からない昨今。

インフラ的な整備に関しては国や自治体に任せるしかないですが、個人個人で出来ることは「知っておける情報や方法は知ろうとしていく」ことしかないのではないでしょうか。

私の住んでいる地域の自治体が「救急救命処置教室」を無料で開催してくれるということで、行ってきました。


4分。
この「4分」が非常に重要で、呼吸停止から心肺蘇生を行い始めるまでの時間の目安です。

呼吸停止から2分以内に心肺蘇生が開始された場合の救命率は90%。
4分以内に開始された場合は50%

4分を過ぎると急激に救命率は落ちていきます。

倒れて意識のない人がいたら。
@まず、その倒れてる人と周囲の安全確認。←重要!
@次に周りに人がいたら、目を見て「119してください。」「AEDを探してきてください。」と頼む。
 周りに人がいなければ、自分で119。AEDは後回し。
@倒れている人に声かけ「聞こえますか?わかりますか?」(むやみに動かさず、肩などトントンッと軽く刺激を与えながら。)
@10秒間ぐらい呼吸があるかないかを確かめる。

@呼吸が停止していれば、即、心肺蘇生開始。

*心肺蘇生(心臓マッサージ。なるべく平らな固い場所で。)
場所は左右の乳首を結んだ線の真ん中辺り。
そこに自分の手の付け根部分を乗せて、もう片方の手を重ねる。
肘を伸ばして、真上から垂直に体重をかけて押していきます。(少なくとも5センチ沈むように。)
回数は1分間に100回以上。
(ちなみに実際やった感じではテンポ100~105ぐらいでした。)

以上を救急車が来るまで続ける。

思っているより力が必要です。手も痛くなります。
でも、止めてはいけません。
倒れている人が家族や友人や恋人だったら尚更です。
「何もできなかった...」と後悔するぐらいなら、「救えるかもしれない命」を救おうとする手段を知っておくことが大事だと思います。

ちなみに、AEDの使い方も教えて頂きました。


「電流が流れるシート」を貼る場所が、濡れている時は拭く。
体毛で上手く付かない場合は剃る。(T字カミソリもAEDセットに入ってるらしいです。)

1度体験しておくと、もしそういう現場に遭遇したら迷いなくできると思うので、行かれたことのない方は、お近くの自治体や何かのイベントで救命教室があったら是非参加されることをオススメします。




2013年8月20日火曜日

モモ


4月から受け始めた講座も、いよいよ大詰めになりました。
もうすぐ終わってしまうかと思うと、かなり寂しいです。

本当にたくさんの事を、短期間で、広く浅くではありますが、心に刻ませてもらいました。
中でも心に響いたのは、「知っていくこと」の大切さです。

これまで自分の人生の中で形成されてきた偏見や先入観(未だ自覚出来ていないことも含め)を見直しながら、その時その時に感じる「何故?」という気持ちを大事にし、その背景や歴史、それによって培われている人の心について、出来る限り知ろうとしていく。

この姿勢は、今後の私の人生にとって宝物になりそうです。

そして、もう一つ。この講座の「核」ともいえる事があります。
それは、「聴く」ということ。
まさに字のごとく、「心の目で耳を傾けること」の難しさを教えて頂きました。

心が弱って、声にならない声で助けを必要としている人がいれば、
「アドバイス」や「なぐさめの言葉」などは一切云わず、ただひたすら寄り添って聴く。
相手がどんな考えの人であれ、どんなに自分の価値観とかけ離れた人であれ、子供であれ、成人であれ、老人であれ、その「心の声」を全部受け止めて、ひたすらその傍らで、その人の内なる力を信じて待つ。

講義を受けながら、「そういう事ができるようになりたいと頑張ってる人が、こんなにたくさん日本にいるんだ。」と本当に心強い気持ちがしました。
(私が受けた講座の受講者は約200人ほど。現役の医師、看護師、介護士、教師、会社員、主婦、定年退職されてから「人のために何か自分にできることはないか」と模索されている方等、様々な人がいらっしゃいました。)

何より私がこの講座で感謝したい事は。
この「真に聴く行為」こそが、自分の人生観を押し広げていく何にも代え難い「心の糧」となっていく事に気づかせてもらえた事です。

そして、この事を学びながら思い出した一冊の本がありました。

それは小学生の頃に擦り切れるほど読んだ、「モモ」という本です。
映画「ネバーエンディングストーリー」の原作者の本だと言うと、分かる方もいらっしゃるかもしれません。

凍り付いてしまった心が「生き生きとした人間らしい心」に戻るには何が必要か。
そのヒントが、この本にはたくさん詰まっているような気がします。

子供にとっても多くの事が学べる本ですが、
いつも何かに追われてて「心の焦り」をなんとか鎮めたいと感じている人、「真に心が豊かになる」とはどういうことかを落ち着いて考えてみたい人、そんな大人の人にもオススメです♪


2013年7月18日木曜日

いろんな種の話


ミニヒマワリが満開です。
今年はキレイに咲いてくれました♪

私が2011年以降毎年ミニヒマワリの種を植えている理由は、 3.11のこと(生命のこと)を忘れないためと、「考えること」を止めないためです。

2011年夏頃には、たくさんの情報が錯綜していましたが、ヒマワリが「放射性セシウム」を吸収する等というインターネット上の信ぴょう性の薄い情報を、安易に鵜呑みにしないという「教訓」の気持ちもあります。

あ、あとカワイイからってのも、モチロンありますよ♪

う~~ん。今は講義を受けているせいか、脳内の思考がどうしても講義の内容とリンクしてしまいまして。
今回のブログは少し重めなので、イヤな方はスルーしてくださいm(_ _)m。

続きは写真の下にあります。
ちなみに、この写真は「ねじ花」といって雑草だけど「蘭」の一種だそうです。
どこからか種が飛んできてウチの庭で咲いてくれたんですねぇ♪
よく歩く所に咲いてる子達は踏んでしまいそうだったので、摘んできて台所に飾りました。

 

4月から講義を受けて勉強し始めて3ヶ月ちょいですが。
今まで自分が本当にたくさんの大切な事から目を背けて生きてきた事を思い知らされています。
今日はその中の一つについて書こうと思います。

講義の中で、終末期医療現場のケアする側とケアされる側の「心」について学ぶ機会がありました。

ミニヒマワリのように、命には必ず限りがあります。
人間も同じです。

「いつか自分は死ぬ」ことから目をそらさずに自覚し、ならば「有限な人生で、何をなせるか?」と生きる意味に覚醒する。
これはドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー氏(1889~1976)の云うところの『 実存 』の考えだそうです。

その『 実存 』と対比されているのが『 現存在 』です。
これは、事物だけの世界の内に存在し、他人を、道具として扱って、欲望に駆られ、「いつか自分が死ぬ」ことから目をそらし、ごまかして生きる。
それが『 現存在 』だそうです。

〈 *注意*
これは私の解釈ですので、足りない所や微妙な解釈の違いはどうか温かい心の眼で補ってやってくださいm(_ _)m 〉

私は、『 実存 』を目指して生きたいです。
そして、いつその時が来ようと、できるなら「その時点までに出来る事は、やりきった。」という充実した気持ちで人生を終えたいと考えています。

科学技術や文明の進化は、歴史上や今現在を見てもわかるように、技術は受け継がれ、日々進歩を遂げています。
しかし。
人が、その人生で修得できた「心の成熟」は、その人一代限りのもので、その子供は先代が得た「心の知識や糧」を胎内で獲得して生まれ出ることはできません。
生まれたその時から、他者の人生と関わりを持ちながら、また一から、心を成長させていかなければなりません。


ヒマワリも、その他の野菜達も、成熟し、やがて種を落とします。
「心の成熟の種」は、一つの人生でそんなにたくさんポトポト落とせるものではないかもしれませんが、
自分の中の成長と共に、一粒一粒、落としたり誰かと交換したり。
そんな人生を歩んでいけたらなぁと、微かな希望のようなものを感じる今日この頃です。



2013年6月27日木曜日

「笑う力」


私が今学んでいることを大まかに言わせていただくと。
「哲学」 「心理学」 「教育学」 「法学」 「精神医学」 「看護学」 「宗教学」 といった様々な方面からみえてくる
『人の心』について、たくさんの資料本と格闘しながらも、出来るだけ多くの事を吸収しようと頑張っている次第なんですが。

その中の参考資料に「笑い学」というものがあってですね。
身体の免疫細胞を活性化させたり、血糖値を抑制したり、また、心の持ち方や意思のあり様に変化をもたらしたり。
そんな「笑いの効果」は近年日本でも話題になっていて、科学的に証明されているものもあります。

たしかに。
思い返してみると、私の人生も「笑い」によって本当に救われている部分が多いです。
競争や妬みが渦巻く現実の人間社会の中でも、要所要所で、笑わせてもらったり笑い合ったりした記憶がハッキリと残っていて。
腹がよじれるほど、涙が出るほど大笑いした後なんかは、一瞬ボーッとなりますが、その後は鬱積していたものが「笑い」と一緒に吐き出されたのか、スカッとなるんですよね。

「笑う前の自分」と「笑った後の自分」とでは明らかに何かが変わっていて、今思うと、そこから「また立ち上がるエネルギー」が生まれていた事も少なからずあったなと。

地球上に人間という生命体ができて以降、長い進化を経て現在、人間の「笑う」という能力が消滅せずに残っているということは、「笑うこと」が人間が生きていくうえで必要なことだからだそうです。

心から笑い合える人との出会いというのは、今の日本社会では貴重なものかもしれませんが、「笑う力」は誰の中にも存在します。
こういう時代だからこそ、日常の中にある「色んな笑い」の可能性をもっと意識的に掘り起こして求めていってもいいんじゃないかと、ちょっと思いました。
あ、そういえば前回ブログに書いた福澤諭吉さんの自伝本にも「フッ」とか「ニンマリ」的な笑いが随所にありましたよ♪

ちなみに、「笑い」を科学的に数値化する「笑い測定器」なるものを、今は亡き木村洋二教授(関西大学)が開発されたそうで、その数値の単位は「aH(アッハ)」だそうです。

なんでも人は笑うと横隔膜が振動するそうで、その振動で発生する電位を測定するらしいのですが。
「○○アッハ笑ったからストレスホルモンがこれだけ減った」とか数値化できたら、「笑い療法」が医学的に使えるようになるということで。
その研究は木村教授のお弟子さん達が受け継いでいるそうです♪

2013年6月17日月曜日

福翁自伝


本を読むことは、わりと昔から好きな方でした。
幼い頃、母によく「絵本の読み聞かせ」をしてもらったことも、ひょっとしたら関係してるのかな。

「本を読む」ということが何故面白いのかを考えてみると。
フィクションであれノンフィクションであれ、本には必ず「筆者の考え方や想い方」が表れています。
その筆者の人生観と自分の人生観を擦り合せることによって、少しずつ自分の人生観も広がっていくように感じるのです。
人と人との繋がりが稀薄になりつつある社会で、人と真剣に向き合うという機会が減ってきた中、他者の人生観と交わる機会も減っています。
本は、そこを少なからず補ってくれているんじゃないかと。

ちなみに。
目的の本を予め決めてから本屋さんに行くのももちろん合理的でいいのですが、買う本を本屋さんで悩みながら決めるのもワクワクして楽しいんですよね。
表紙絵と題名がしっくりくる本や、店員さんの手書きポップの内容が魅力的な本、とか。
そういう本に出会うと何か「縁」を感じたりして、どこか気持ちも上向きになるというか。

っと言ってながら、今回の本は今通っている講座の中で薦めてもらった本なんですけどね。
「福翁自伝」。
あの一万円札の人の自伝です。あまりに面白い本なので♪

この福澤諭吉という御人は。
切捨御免などという制度があったり、人の命がまだ現在の日本ほど統一しては守られていなかった時代に。
この上なく、とんでもないイタズラの数々をやらかした人でした。
しかし、その「世の中を斜め上から見渡す能力」で以て激動の時代をひょうひょうと生き抜いた彼は、どこか母性本能をくすぐる所もあったりします。

いつの世も、悪い人間もいるし、理不尽な事もたくさんあると思います。
福澤諭吉さんは、その時そこにある世の中で、彼の類い稀なユニークさで以て、自分にできる事を精一杯やり抜いた人だと、本から伝わってきます。
この人の、「諦める」という言葉なんか存在しないかのような人生は痛快そのもの。
「人生は自分で切り開く」という事も再認識させてくれ、心が元気になれる本だと思います♪